落ち葉掃除としめ縄飾り

正月事始め

年の瀬の慌ただしさの中、断捨離・大掃除が落ち着きましたらお正月の飾りつけをします。門の松飾りには年神さまを待つ意味があり、お迎えした年神さまはお正月の期間は鏡餅に宿るとされています。12月8日の「正月事始め」から大掃除に至る一連の作業は全て、年神さまをお迎えするための行事です。

  • 正月事始め 12月10日頃 ~ 12月28日

東大寺の大仏殿煤すす払いのニュースが流れてくる頃になると年神さまをお迎えするお正月の準備季節になります。大掃除から初めてお正月飾りを12月28日までには終わらせましょう。

 

年神さま

お正月は、年の初めに年神さまを家に迎えて一年の豊作豊漁を祈るものです。年神さまとは、新しい年の穀物の実りをもたらし、人々に命を与てくれる神であり、私たちを見守ってくれるご先祖の霊であると考えられてきました。春になると里に降りてきて田の神となり、秋の収穫が終わると山の神になり、正月には年神さまとして戻ってくると云われています。1月を睦月といいますが、お正月に年神さまと先祖の霊を皆で仲睦まじくお迎えするという意味があります。

一夜飾り

お迎えするのが急でバタバタしないように「一夜飾り」といって大晦日前日に慌てて松を飾ることを戒めています。現在の暦では12月は31日までありますが、太陰暦では30日が大晦日で31日はありませんでした。なので前日の29日に松を飾ることをいまだに一夜飾りといって避けるべき行いとしています。では、松飾りはいつまでにした良いのでしょうか。答えは「15日から28日までに済ませておく」です。現在はクリスマスという習慣が根付いているので、大半のご家庭では実際の片づけが25日以降になっているのではないでしょうか。仕事納めもありますのでご家庭で作業の分配をして、うまく年神さまをお迎えしてください。

お正月の餅は12月25日から28日の間についた餅が良いとされます。29日は「苦餅」、30日31日は「一夜餅」といい忌み嫌われます。30日はお正月前日ではありませんが、旧暦では12月31日は無いために30日も同義になります。飾りつけも同様で29日は「苦」、30日31日は「一夜飾り」となります。

年神さまは鏡餅に宿るとされています。できれば木製の三方に鏡餅をかざり、近くに命名旗、名前旗を飾ると素敵な室礼飾りになります。

上巳の節句

上巳(じょうし)とは

上巳は旧暦3月の最初の巳の日のことです。毎年変動するので便宜上3月の3日に固定したもので、女の子の健やかな成長と幸福を願うひなまつりの日です。

陰陽五行説によると奇数「3」は陽数です。この3が重なる3月3日は陽の気が強すぎてしまい「陰」に転じる悪日とされます。このような悪日に「神様をお招きし、料理をお供えして穢れを持ち帰って頂く」節会を催すのです。お供えした料理のお下がりを皆で頂戴して神様の御力を頂きます、これを「直会(なおらい)」といいます。

「雛あられ」「菱餅」などの神様へのお供えは、そのまま雛道具として残っていますね。

菱餅 ひなあられ
ひなあられ 菱餅

 

「ちらし寿司」や「蛤のお吸い物」などのひな祭りの特別な料理には、神様に召し上がって頂いた同じものをお下がりとして頂くという意味合いがあります。

蛤のお吸い物には、二枚貝の殻は他の貝殻とは決して合わないことから将来めぐり会う伴侶との良縁を暗示しているといわれます。

 

 

ひなまつりの原型

元は災いや穢れ(けがれ)を「ひとがた」「形代(かたしろ)」というひとの形にした紙に負わせて川に流す儀式でした。「夏越の祓」の際に神社でもらう形代に息を吹きかけて災いを移して水に流すものと一緒です。「流し雛」という形で現在に受け継がれています。

紙でできた形代
形代

平安時代の「ひいな遊び」というおままごと遊びと人形遊びが変化して、ひな人形に厄を引き受けてもらうようになりました。

流し雛

桃の節供

ひなまつりを桃の節句とも呼びます。これは旧暦では桃の花の開花時期にもあたりますが、という厄除けや神様に供える神饌の特別な果物にも影響があると思われます。

元は桃ではなく、香りの強い藤袴という水辺に咲く植物で邪気を払っていたという説もあります。

 

上巳の節句の室礼

ひなまつり本来の「邪気を払う」意味あいから、神様にお供えした食べ物を家族皆さんでいただく「節会」を催しましょう。

 

ひな人形を飾るときに一緒にお子様の名前を記した命名旗、名前旗を飾ってくことで、邪気払いの意味合いが強くなります。

お供えした食べ物は、お取り寄せしたひなまつり限定の和菓子です。器はひな人形のお道具を用いましたよ。活け花を飾るともっと良いですね。

 

 

 

お盆

お盆も親戚縁者一同に赤ちゃんをお披露目する機会です。お母さんはお嫁さんとして忙しいでしょうから、命名旗にお披露目の仕事をさせて、 お休みするなりお手伝いするなりしてください。お父さんもお盆の挨拶回りが忙しいでしょうが、ご家族を労わってあげてください。 ご先祖様たちがおうちへ戻ってきているとされるお盆に是非、命名旗を掲げて下さい。滅多に会わない親戚一同もお子様のお名前と年齢を確認できます。

春のお彼岸

太陽がほぼ真西に沈み、昼と夜の時間がほぼ同じ半分半分になります。夏至まで昼の比率が多くなっていきます。彼岸中日で、春分の前後3日間をあわせてお彼岸です。豊作を祈りぼた餅をお供えします。ぼた餅は「牡丹餅」と書きますが、秋分の頃になるとその名を「お萩(おはぎ)」と変えます。お墓参りでご先祖様の成仏を祈り、家族の報告をします。仏壇があれば命名旗、名前旗を傍らに飾り家族の無病息災を祈ります。

 

冬至のゆず湯と南瓜

冬至

年で一番夜明けが遅く、日没が一番早い日で、日照時間が年で一番短い日です。

この冬至を境に太陽の出ている時間が延びていくことから、底を打ってこれから上昇していく意味合いから古来より重要視された日でもあります。

 

陰陽五行説において冬至は陰の気から陽の気に変わる節目になります。「太陽が復活する日」として農業における再生を祝う大事な節気です。古今東西でも同じような意味合いがあり、キリスト教におけるイエスの生誕を祝うクリスマスの祭りはこの古代の冬至の日に敢えて設定したという説があります。

大師講と南瓜、小豆

冬至には「大師講」の行事を行います。「大師」とは弘法大師のような高僧のことで、各地の弘法大師信仰の広まりと共におまつりするようになったものです。小豆粥、南瓜料理をお供えしていただく他、「ん」のつく みかん、れんこん をいただく地方もあります。貧しい家に旅の僧(弘法大師)が宿をとる逸話では、貧しさのあまり塩も入っていないあり合わせの小豆粥でもてなしてご利益を授かったことから、この粥は特に「霜月粥」「大師粥」と呼び小豆、団子を入れていただきます。南瓜は「冬至唐茄子」「冬至南瓜」といわれ、昔から冬季のビタミン不足を補う効果が知られていたものとという説もあります。

でも、「ビタミン」という栄養素は明治45年(1912年)のエルマー・ヴァーナー・マッカラムの発表まで認識されていませんでした。日本の鈴木梅太郎による「脚気」治療のためのビタミン発見の方が早いのですが、それでも明治のお話でとても中世日本で栄養補給のため南瓜を食すと良いと認識されていたとは思えません。

冬至は冬の節気のちょうど中間にあたり「子」にあたり「新しい生命が種子の内部から萌し始める状態」で「水」の配当になります。南瓜、小豆の色が橙色赤色で、陰陽五行説においては「火」に配当され、冬至の正反対の位置関係で陰に極まった状態である冬至の気を「火」の気で緩和しようとする意図があるように感じられます。

 

ゆず湯

冬至の日の入浴時にはゆずの実を湯に浮かべた「ゆず湯」に入ると風邪を予防するといわれます。香りの強いゆずで「邪気」を祓う意味があると思われます。

 

酉の市

収穫祭の意味合いがあった酉の市

現在の東京都足立区にあった花又村の鷲神社(のちに花畑大鷲神社に改称)の近在住民の収穫祭が、現在の酉の市に発展していったとされています。秋も深まり、農作物の収穫が終わる現在の11月に、鎮守である鷲大明神に市がたち、農具や農産物を売る露店が立ちました。その中で売られていた農具の熊手が、飾り熊手に変化していきました。市で売られていた農作物の中には現在でも売られている名物があります。

頭の芋

大きな唐の芋「頭の芋」、この芋は八頭といい、古来より頭の芋(とうのいも)とも呼ばれ、人の頭に立つように出世できるといわれ、さらに一つの芋からたくさんの芽が出ることから「子宝に恵まれる」という縁起物です。

黄金餅

粟で作った黄金色の「黄金餅」も売られました。黄金餅は粟餅(あわもち)の別名といわれており、この粟餅は餅米5分に、粟5分の割合にして搗(つ)いて出来た黄色い餅のことを言い、この黄色が金色の小判に良く似ていたことから、お金持ちになるようにとの縁起で売られていました。現在、黄金餅(粟餅)を商うお店は無くなってしまったそうですが、団子屋さんを覗けばみつかるかもしれません。

切山椒

「切山椒」は上新粉に砂糖と山椒の粉を加えて搗いて薄く延ばして短冊形に切った正月用の餅菓子です。山椒は日本の香辛料で、葉、花、実、幹、樹皮に至るまで、全てを利用することが出来る落葉低木です。さらに、山椒の木はとても硬いのですりこぎや杖としても利用されています。このように捨てるところがない全てが利用できる(有益である)との縁起から切山椒が商われるようになりました。この切山椒は現在でも青、ピンク、緑にきれいに着色されたものが売られています。江戸時代には甘い菓子は少なく、祭や市などの時には甘い菓子が大変喜ばれ、参拝のおみやげに熊手と一緒に買われていたようです。

熊手

最後に農作物と一緒に売られていた農具である「熊手」です。もとは単なる落ち葉などを集める道具であった熊手が、「運」「金」を「掃き込む、かき込む」意味合いで飾り物に変化します。江戸市中からの参拝者が増えるに従って、実用的な熊手から江戸っ子が好む洒落がきいた縁起熊手へと変化していったと伝えられます。

酉の市の品を見ると「正月準備」の市のようですね。八ツ頭は現在でもおせち料理の中の一つですし、餅も祝いの料理です。熊手は落ち葉の多い晩秋に必須の農具でしょうが、年末の大掃除にも用いられます。人々がどれだけ正月を大事にしていたか当時の面影をしのばせます。

大鷲神社

足立区花畑の大鷲神社(佐竹扇を神紋にしています)を「上酉、本酉」、千住にある勝専寺を「中酉」、浅草の鷲神社を「下酉」と称しており、江戸時代から続いていた酉の市はこの3カ所でしたが、明治時代になり千住・勝専寺の酉の市が閉鎖され、花畑の大鷲神社と浅草の鷲神社とが唯一江戸時代から続く酉の市となりました。江戸時代の文献では「花又の鷲大明神」は鷲の背に乗ったお釈迦さまとされ、人々は「鶏」を献納して開運を祈り、祭が終了した後に浅草の観音堂前に放ったといわれています。因みに浅草の鷲大明神は鷲の背に乗った妙見菩薩とされています。

当時の浅草の鷲神社のすぐ隣には有名な吉原遊郭があり、酉の市には普段閉ざされている門が開かれて、とてもにぎわったという話が伝わっています。花畑よりも浅草の鷲神社が賑やかなのは吉原と相乗効果で大勢の江戸っ子が押し寄せたことがその所以なのかもしれませんね。

現在では全国各地の神社で酉の市が開きます。商売繁盛を願い縁起熊手を求める人でにぎわいます。この日は特別なお守り「かっこめ」という小さな熊手に稲穂と札がついたものが出されます。

小さな飾り熊手
かっこめ

 

熊手の粋な買い方

熊手は家内安全、商売繁盛を祈念し買い求めるもので、神社の社務所と授与される「かっこめ」が千円くらいです。そこからン十万円する高額な飾熊手までいろいろあるのですが、毎年買い替えるものなので、初めは小さい物を求め、徐々に大きくするのがよいとされています。売れすぎは2~5万円ほどだそうです。

これと決めた熊手があったならば、熊手屋さんと駆け引きの始まりです。どれだけ値切れるかは腕しだいです、うまくいけば熊手屋さんの気っぷのいい声が聞けるかもしれません。

値切った分だけ「ご祝儀」として店においてくるのが粋な熊手の買い方とされています。実質熊手屋さんの言い値で買ったことにはなりますが、お客様はご祝儀を出してちょっとした大名気分を味わい、熊手屋さんはご祝儀を頂いてより儲かった気分を味わったのです。その後、商いの成立を意味する手締め(手終い)を行い御家庭・会社の繁栄をその場の皆で祈念するのです。

 

熊手と名前旗・命名旗との飾り方

購入した熊手や授与された「かっこめ」は神棚や家の目立つ場所で高く掲げるように飾るものです。

当店では、季節の行事毎に名前旗、命名旗をだして一緒に飾ることを提案しています。酉の市の熊手と一緒に飾ることで、名を記したお子様が熊手にあやかり「福」や「お金」を掴み取れるという意味になります。ほかの年中行事よりも現世利益が前に出た祈りですね (;^_^A 。

かっこめ、熊手には持ち手があり、握るには良いのでが飾るには工夫が必要です。ここでは「かっこめ」を名前旗、命名旗と一緒に飾り室礼を整える礼を挙げます。

   

熊手の「柄」と「爪」部品を固定する横梁に隙間があるので、そこに紐を通して大きな輪を作ります。その輪の上端を旗竿の上部の溝に掛けることで一緒に飾ることができます。

 

年中行事の度にこうして名前旗、命名旗を飾ることで、お子様たちはご両親やご先祖の愛情を感じることになるでしょう。みんな元気に成長してね!

七夕の節句

7月7日は「七」が重なる七夕の節句「しちせきのせっく」で五節句の一つに数えられます。

陰陽五行説において奇数は陽ですが、月と日の陽が重なると陽の気が強すぎて悪日とされます。そのような重日に神様を招いて料理をお供えしてお祀りし、禊払いをすることを節供または節句といいます。

七夕は「たなばた」と読みますが、子供の頃、なぜ七が「たな」で、夕が「ばた」なのだろう。又、空は水蒸気でぼんやりとしていて、毎年雨の7月7日ばかり迎えて伝説の彦星と織姫は一体いつ会えるのだろうかと不思議に思っていました。

「七夕の節句」は正確には「しちせきのせっく」と読みます。なぜ「しちせき」は「たなばた」の通り名になったのでしょうか。

 

古代中国の七夕

私たちがよく知る「牽牛と織女(彦星と織姫)の伝説」は相当に古く、中国の文献によると古代王朝の商、周の木簡に既に記録があるようです(亀甲文字で書かれていたのでしょうか?)。後漢のころには物語として整っています。お話のあらすじはこのような感じです。

むかし、天帝という神様が星空を支配していた頃、働き者の牽牛という牛飼いがおりました。天帝はその働きぶりに感心して、自分の娘である織女と娶せることにします。牽牛と織女は毎日幸せに暮らすのですが、全く怠慢になり仕事をしません。織女は布を織らなくなったので天界では布が足らなくなり、一方の牽牛の牛たちも痩せ細って弱ってしまいました。それを見た天帝は怒り、二人を天の川の両岸に引き離し、1年に1度、7月7日の日にだけ合うことを許したのです。

牽牛をわし座の1等星アルタイル、織女をこと座の1等星・ベガに見立てています。その後、民間では牽牛、織女だけでなく文昌帝君、魁星、朱衣神、呂祖、関帝の諸神を星に見立て(司馬遷の『史記』天官書には、魁星とは北斗七星の第一星から第四星、「北斗の魁星をいただいて、これを助ける六つの星を文昌星という」と記されています)7月7日に一緒に信仰するようになって、科挙合格や、仕官を願うような習慣になります。

又、西王母という女仙が7月7日に漢の武帝を訪れたという伝承と相まって、七夕の節句は漢の公式行事となり権威が高まります。

中国では七夕節を乞巧節とも呼び、女性が縫い針を水面に浮かべ、その針の水底にある影をみて針仕事の技術向上を占う習慣がありました。この習慣は後世まで流行して各王朝の宮廷で行われ、乞(願う)巧(たくみ)奠(神前に物をそなえてまつる)という乞巧奠(きっこうでん)といいます。

乞巧奠の様子
宮中乞巧奠の様子 中国节 李露露 著より

日本における七夕

日本においては、天から降りてくる水神様を迎えて祀るため、7月6日の夕方から7日にかけて水辺の機屋(はたや)に籠もり美しい神衣を織る乙女(巫女)を棚機津女(たなばたつめ)の伝承があります。棚機津女の元を訪れた水神が、7日の朝にお帰りになる際、人々が水辺で身を浄めることで一緒に災難を持ち帰ってくれるといわれています。七夕の日に七回食べてその度に水に籠って身を清める地域もあります。この棚機津女と大陸の七夕の習慣が大陸から伝わるとこれらの習慣は融合し、日本独特の変化をします。

大陸の乞巧奠が針仕事の上達を神に祈る習慣である一方、同じ布仕事である棚機津女という伝承が混同してしまい、字は七夕(しちせき)、読みは棚機(たなばた)に、習慣自体も大陸のそれと日本のものとが一緒になってしまったようです。

宮中のおける七夕

奈良時代には宮中において「七夕の節会」が行われています。平安時代には明朝の乞巧奠になぞらえ、詩歌の宴が盛大におこなわれるようになります。宇多天皇の命に応えて菅原道真が詠んだ七夕の漢詩には、文昌星をして宇多天皇の文治を讃えています。宮中の七夕は自身の教養の高さを誇る最高の 舞台で、朝まで星や織姫伝承にまつわる歌を詠みあうそうです。

その他、菅原道真公が七夕に因んで読んだ句に

ひこ星の行き会いをまつかささぎの渡せる橋をわれにかさなむ

と、彦星と織姫が会うために七夕の一晩だけ鵲(かささぎ)が渡す橋を貸してほしい(京に戻りたい) というものがあります。

大宰府に流された道真公の無念が現れた句です。

星に願い

七夕の願い事は、織姫彦星や星に見立てた文昌帝君、魁星、朱衣神、呂祖、関帝の文芸、学問に関する神様にします。ご先祖様や年神様などの神様ではありません。これらは皆、天の星で、他の年中行事とは異なっていて興味深いです。

天に向いた庭に祭壇を設けて、火口が七つある燭台の灯明(北斗七星を示す?)、秋の七草、衣類などを手向けます。

天川とほきわたりにあれねども君が船出はとしにこそまで

(天の川はそれほど遠い渡し場というわけではないが、あなたの船出は1年かけて待っていることだ)

この柿本麻呂の歌を芋の葉に溜まった露を集めた水で墨をすり梶の葉に書いたものを笹に短冊や色紙とともに吊るして、星へ手向けるのです。

 

梶の葉に古歌を記す
七夕のお供え
七つの火を灯した燭台と上の梶の葉を秋草と共にをお供えする 冷泉家の年中行事 より

 

皆さんのご家庭で七夕飾りを作る際、梶の葉を吊るしてみて下さいね。梶の葉型データをダウンロードできますから、1枚の用紙にそれぞれ片面ずつ印刷して切り抜くと「梶の葉」が出来上がります。

 

梶の葉飾り-輪郭.pdf

 

梶の葉飾り-緑.pdf

笹飾りの中央にある「梶の葉」がつくれますよ。

乞巧奠

日本の乞巧奠(きっこうでん)は短冊に歌や願いを書いて、笹の葉に飾りと共に吊るします。願い事は文字や裁縫の上達です。これが七夕に笹の葉を飾る原型です。

乞巧奠の飾り付
季節の農作物、五色の糸、五色の布、歌をかいた梶の葉の他、琵琶、琴など芸事の道具を一緒に供えます。

裁縫の上達を願うので、五色の糸や五色の布を供えます。その他、農作物と楽器の上達を願う人は楽器を供えます。

旧暦の7月は「文月」とよばれるのは、こうした短冊に歌や願いを書くことが由来なのかもしれませんね。

七夕飾りの短冊に書く願い事

幼稚園で七夕の行事があったので、参観がてら願い事を覗いてみますと時代を反映して面白いことが書いております。「野球選手になりたい」「ケーキ屋さんになりたい」は昭和から変化がありませんが、「ぷりきゅあになりたい」「ポケモンになりたい」となってくると好きなキャラクターそのものになりたいわけで、プリキュアは職業かよと思ってしまいます。幼稚園では短冊に書くことは「願い事ならなんでもよい」となっているので園児に罪はありません。

元々の乞巧奠から私たちが本来短冊に書くべき願いとは自分の技術向上や上達で、子供たちの弛まぬ努力を促すものが望ましいと思います。七夕飾りを作るときや、七夕の季節の料理を食べる際に命名旗、名前旗を飾って子供たちの成長を祈る日にしてください。

 

七夕は秋の行事?七夕とお盆の関係

又、現代日本において七夕は初夏の節句のイメージですが、大陸では「秋の節句」になります。これは現代の暦ではなく旧暦を用いているためで、実際の七夕はひと月遅れの8月に行われます。これが現代日本において天の川が雨天で見られない原因ですね。

当然、明治の改暦以前は日本でも旧暦(といってよいのか?)で年中行事が行われておりました。旧暦の7月7日あたりはお盆の季節、お盆準備の季節にあたり、この七夕風習とお盆風習がなんとなく似た景観になります。五節句の中で地味なイメージなのはお盆が関係していると思うのは私だけでしょうか?

たとえば、牽牛とお盆飾りの茄子で出来た牛という牛つながりや、水で身体を清める行事と笹の葉を川に流す行事の水つながり。七夕は禊(みそぎ)というお盆準備の側面があったように思われるのです。

夏越の祓 室礼

神社で茅の輪を潜り魔除けの茅の輪を頂いたら、ご自宅で夏越の祓の室礼を整えると良いと思います。

この半年の厄を落とし、家族の無病息災を祈るこの行事にお子様の命名旗や名前旗を飾らない手はありません。

 

季節のお菓子「水無月」

夏越の祓の和菓子に「水無月」というものがあります。京都のお茶の席では定番のお菓子です。

三方にお菓子を盛り、神様にお供えします。この工程を踏むことで神様と一緒にお菓子を頂くことになります。

 

茅の輪守り、蘇民将来符

神社で夏越の祓の行事をするときにこの時期にしかない茅の輪守りや蘇民将来符を頂きます。

これは須佐雄神が蘇民将来の子孫であることを示す「茅の輪守り」を持たないものを全て絶やしてしまったという逸話から、茅の輪を飾ることで疫病や災いから身を守る意味があります。

茅の輪守りを名前旗や命名旗に掛けるといいと思います。

 

形代

冷泉家の年中行事より

人型に切り抜いた紙や、人型に結んだススキの葉を「形代」といいます。形代で自分の体を撫でながら

水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶというふなり(みなづきの なごしのはらえするひとは ちとせのいのち のぶというなり)

と三回唱えて息を吹きかけたものに自分の厄を移してタライや瓶の中の水に捨てます。

形代はあとで川に流します。

 

夏越の祓 室礼

お子様の名前を記した名前旗や命名旗に「茅の輪守り」を掛けて、三方にお供えした水無月を家族皆さんで召し上げることで、家族の全員の無病息災を祈る「夏越の祓」です。

 

 

 

 

 

夏越の祓(なごしのはらえ)

6月30日は一年の半分という節目にあたります。お正月からこの半年の間についた厄や穢れを祓うために各地の神社では「夏越の祓」という神事が執り行われます。

本来は旧暦の6月つまり水無月の晦日(末日)に行われていたこの行事、現在の暦ではだいたい7月末から8月上旬くらいにあたります。ちょうど夏の盛りを迎えている季節ですが、翌日から秋を迎える日となります。立春から半年になり夏の盛りを無事に越した意味での「夏越」と言っていたわけです。

現在では通常の暦で6月30日に執り行われている行事です。

茅の輪くぐり

夏越の祓では茅の輪くぐりが行われます。茅草を束ねて輪を作ったものを「茅の輪」といいますが、茅の輪を神社の境内に設け参拝した人々がその輪を潜ることで穢れが祓われるとされます。

茅の輪を∞状に潜るのですが、神社によって変化があるようです。

 

茅の輪くぐり
武蔵の一宮 氷川神社の茅の輪くぐり

 

茅の輪の由来

夏越の祓に茅の輪を潜る習慣は「備後風土記」にある話が基になっているといわれます。「備後」とは出雲の南側、安芸の東側、備中の西側に当たる地域のことで現在の広島県あたりです。

貧窮の兄と富裕の弟とがあり、須佐雄神(すさのおのかみ)が宿を求めたとき、裕福な弟の巨旦(こたん)将来は応じない。一方、貧しい兄の蘇民将来は宿を提供してもてなした。帰り際に須佐雄神は言い残す。「蘇民将来之(の)子孫」と分かるよう「茅の輪」を身に着けよ。茅の輪を身につけていれば厄病を免れることができる」。その疫病がはやり、弟の巨旦将来の子孫は死に絶えたが、蘇民将来の子孫はこの言いつけを守り疫病を免れることになったという。

茅の輪くぐりの他、神社で茅の輪守りや蘇民将来符を求めることができます。蘇民将来符とは京都八坂神社のお守りの事で、古くは「祇園守」という家紋の基になったものです。

氷川神社の茅の輪お守り 家の出入口や神棚に掲げて用います。

形代

神社やお寺では、夏越の祓の折に形代という人の形を象った紙を配っています。

人型にした紙に自分の名前を記し、自分の体を紙で撫でたうえに息を吹きかけることで、自分の穢れや厄を紙に移し、神主が祝詞をあげてから形代を水に流して厄祓いをします。

残りの半年も無地に過ごせるように祈るのです。

 

形代
形代

 

夏越の祓の室礼と命名旗、名前旗

 

 

 

 

 

 

端午の節句

五月五日は端午の節句です。カレンダーでは子供の日とあります。

本来は五月最初の午の日の意味だったのですが、「午」が「ご」と発音される同音であることで、後に五月五日の五が重なる日を端午の節句とされていきました。

又、別の説では「端午」とは仲夏端め(ちゅうかはじめ)の五日の意味であり、5は午と同じ発音の為に変化したもので「午の日」ではないとも云われます。どの文献も信ぴょう性があり、なかなか判断ができません。

端午の節句とは

奇数である「5」は縁起の良い陽の気にあたりますが、陰陽五行説の生まれた大陸では五月五日は陽の気が強すぎてかえって「悪日」とされます。五月は「さつきのもの忌み月」とも呼ばれ、邪気を祓い、魔を避け、無病息災を願うさまざまな行事が行われるようになります。

元々の端午の節句

古代中国では五月五日は不吉を遠ざけるために穢れを祓い清める日であり、香りの強い蓬(よもぎ)や菖蒲を以て邪の気を祓う習慣がありました。旧暦の5月は梅雨時期にあたり食物の衛生や虫害に気を遣う気候になります。香りの強い植物で毒消しをするには合理性があります。この他にも端午の行事として五穀豊穣を祈り疫病を避ける目的で龍を象った船で競漕したり、禍を祓う鍾馗の絵を贈ったり、粽を食すなどの習慣が奈良時代に伝わり、宮中の行事に取り入れられたことから日本でも端午の節句が定着します。

中国の龍船競漕の図

端午の節句の移ろい

宮中では軒先に菖蒲を葺いて飾り、臣下は冠に菖蒲かづらをつけて参列をする特別に日になります。菖蒲を酒に入れて飲んだり、菖蒲を湯にいれて沐浴したり穢れを祓います。菖蒲には解毒作用があり胃薬として傷を治す創薬となどの民間薬として用いられていました。又、農村においては丁度、田植えの季節にあたり田の神様を迎える大切な時期になります。田植えをする女性を「早乙女」といいますが、早乙女たちは菖蒲や蓬で葺いた屋根の下に一晩籠って穢れを祓い身を清めてから早苗を手に田植え作業をしました。端午の節句は古来はむしろ女性のための節句だったようです。

軒先に菖蒲を葺く
軒先に菖蒲を葺いた様子  新講談社の絵本 一寸法師 より

端午の穢れ払いには「菖蒲」が欠かせませんが、この菖蒲が「尚武」に通じることから、次第に端午の節句が男の子の健康な成長を願うための節句に変わっていきます。室町時代には武者絵や鍾馗を書いた幟や家紋を染めた幟をたてたり、武者人形や甲冑を飾ったりするようになります。菖蒲の葉の形も剣の形をしていることから剣水草とも呼ばれて尚武を連想させます。

 

冷泉家の年中行事より

旧公家の冷泉家の端午の節句飾り。競漕を模した飾りつけ、武者人形、鍾馗の絵、菖蒲、家紋幟がありますね。

鯉幟(こいのぼり)と五色の吹き流し

鯉のぼりの歌の影響でしょうか。こどもの日といえば鯉のぼりが思い描かれます。江戸時代になると庶民の間で鯉幟を揚げる習慣がでてきます。鯉のぼりは鯉が滝を昇りいずれ龍となるという昇竜伝説にあやかり子供の立身出世を祈るものです。

鯉のぼりの一番上には五色の吹き流しがあります。これは陰陽五行説の木、火、土、金、水を意味しこの五つの要素が揃うことで吉祥になります。

シーボルト「NIPPON] より

端午の節句の食べ物

中国では古くから端午の節句に食べる粽は疫病から身を守り、家族の健康を守ると信じられています。春秋時代に楚の国の大変高名な詩人、屈原(くつげん)が泪羅という川で命を落としたのが五月五日でした。屈原の死を悲しんだ人々が、命日に供物のもち米を水面に投じて供養したのが、粽のはじまりだといわれています。人々は供物が屈原に届く前に龍に盗まれないように、龍が苦手な笹の葉で包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛って川へ投げたことから、五月五日に粽を作り、厄除けを願う風習が日本にも伝わりました。「龍を象った船で競漕」する習慣はこの屈原を助けるためにだした船と粽を食べてしまう龍を意味するものと云われています。

日本の粽は本葛と水と砂糖だけで作られた水仙粽です。赤・青・黄・白・黒の五色の紐で粽を結んで食した家族の無病息災を祈ります。

柏餅

柏餅を包む柏の葉は、日本では祭事の神饌を盛る器(柏の家紋ページへ)として神聖なものとされてきました。端午の節句に柏餅を食べる習慣は、江戸時代に広まったそうです。「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という柏の特性から、柏餅は子孫繁栄を象徴する縁起の良いお菓子です。

端午の節句には、関東では柏餅、関西では粽を食べるのが主流とされています。中国から端午の節句とともに粽が伝来したのは平安時代。端午の節句が五節句のひとつになった江戸時代には、柏餅を食べることが江戸の主流となり、伝統を重んじる上方では粽を伝承したといわれています。

 

端午の節句の室礼

端午の節句とは、「こどもの日」というよりも本来の意味は、「穢れや不吉が深まり易い時期に特に身を清め穢れを祓い、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈る」節句でした。

他の節句と同様に居処を室礼で整えて、神様とご先祖様に感謝し、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈りたいです。

甲冑を飾り菖蒲を活けて、三方に神饌としての柏餅をお供えします。お子様の名前を記した命名旗や名前旗を飾り、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈ります。

費用をかけなくとも心遣いは伝わります。年中行事を日常に是非取り入れてみて下さいね。