夏越の祓(なごしのはらえ)

6月30日は一年の半分という節目にあたります。お正月からこの半年の間についた厄や穢れを祓うために各地の神社では「夏越の祓」という神事が執り行われます。

本来は旧暦の6月つまり水無月の晦日(末日)に行われていたこの行事、現在の暦ではだいたい7月末から8月上旬くらいにあたります。ちょうど夏の盛りを迎えている季節ですが、翌日から秋を迎える日となります。立春から半年になり夏の盛りを無事に越した意味での「夏越」と言っていたわけです。

現在では通常の暦で6月30日に執り行われている行事です。

茅の輪くぐり

夏越の祓では茅の輪くぐりが行われます。茅草を束ねて輪を作ったものを「茅の輪」といいますが、茅の輪を神社の境内に設け参拝した人々がその輪を潜ることで穢れが祓われるとされます。

茅の輪を∞状に潜るのですが、神社によって変化があるようです。

 

茅の輪くぐり
武蔵の一宮 氷川神社の茅の輪くぐり

 

茅の輪の由来

夏越の祓に茅の輪を潜る習慣は「備後風土記」にある話が基になっているといわれます。「備後」とは出雲の南側、安芸の東側、備中の西側に当たる地域のことで現在の広島県あたりです。

貧窮の兄と富裕の弟とがあり、須佐雄神(すさのおのかみ)が宿を求めたとき、裕福な弟の巨旦(こたん)将来は応じない。一方、貧しい兄の蘇民将来は宿を提供してもてなした。帰り際に須佐雄神は言い残す。「蘇民将来之(の)子孫」と分かるよう「茅の輪」を身に着けよ。茅の輪を身につけていれば厄病を免れることができる」。その疫病がはやり、弟の巨旦将来の子孫は死に絶えたが、蘇民将来の子孫はこの言いつけを守り疫病を免れることになったという。

茅の輪くぐりの他、神社で茅の輪守りや蘇民将来符を求めることができます。蘇民将来符とは京都八坂神社のお守りの事で、古くは「祇園守」という家紋の基になったものです。

氷川神社の茅の輪お守り 家の出入口や神棚に掲げて用います。

形代

神社やお寺では、夏越の祓の折に形代という人の形を象った紙を配っています。

人型にした紙に自分の名前を記し、自分の体を紙で撫でたうえに息を吹きかけることで、自分の穢れや厄を紙に移し、神主が祝詞をあげてから形代を水に流して厄祓いをします。

残りの半年も無地に過ごせるように祈るのです。

 

形代
形代

 

夏越の祓の室礼と命名旗、名前旗

 

 

 

 

 

 

端午の節句

五月五日は端午の節句です。カレンダーでは子供の日とあります。

本来は五月最初の午の日の意味だったのですが、「午」が「ご」と発音される同音であることで、後に五月五日の五が重なる日を端午の節句とされていきました。

又、別の説では「端午」とは仲夏端め(ちゅうかはじめ)の五日の意味であり、5は午と同じ発音の為に変化したもので「午の日」ではないとも云われます。どの文献も信ぴょう性があり、なかなか判断ができません。

端午の節句とは

奇数である「5」は縁起の良い陽の気にあたりますが、陰陽五行説の生まれた大陸では五月五日は陽の気が強すぎてかえって「悪日」とされます。五月は「さつきのもの忌み月」とも呼ばれ、邪気を祓い、魔を避け、無病息災を願うさまざまな行事が行われるようになります。

元々の端午の節句

古代中国では五月五日は不吉を遠ざけるために穢れを祓い清める日であり、香りの強い蓬(よもぎ)や菖蒲を以て邪の気を祓う習慣がありました。旧暦の5月は梅雨時期にあたり食物の衛生や虫害に気を遣う気候になります。香りの強い植物で毒消しをするには合理性があります。この他にも端午の行事として五穀豊穣を祈り疫病を避ける目的で龍を象った船で競漕したり、禍を祓う鍾馗の絵を贈ったり、粽を食すなどの習慣が奈良時代に伝わり、宮中の行事に取り入れられたことから日本でも端午の節句が定着します。

中国の龍船競漕の図

端午の節句の移ろい

宮中では軒先に菖蒲を葺いて飾り、臣下は冠に菖蒲かづらをつけて参列をする特別に日になります。菖蒲を酒に入れて飲んだり、菖蒲を湯にいれて沐浴したり穢れを祓います。菖蒲には解毒作用があり胃薬として傷を治す創薬となどの民間薬として用いられていました。又、農村においては丁度、田植えの季節にあたり田の神様を迎える大切な時期になります。田植えをする女性を「早乙女」といいますが、早乙女たちは菖蒲や蓬で葺いた屋根の下に一晩籠って穢れを祓い身を清めてから早苗を手に田植え作業をしました。端午の節句は古来はむしろ女性のための節句だったようです。

軒先に菖蒲を葺く
軒先に菖蒲を葺いた様子  新講談社の絵本 一寸法師 より

端午の穢れ払いには「菖蒲」が欠かせませんが、この菖蒲が「尚武」に通じることから、次第に端午の節句が男の子の健康な成長を願うための節句に変わっていきます。室町時代には武者絵や鍾馗を書いた幟や家紋を染めた幟をたてたり、武者人形や甲冑を飾ったりするようになります。菖蒲の葉の形も剣の形をしていることから剣水草とも呼ばれて尚武を連想させます。

 

冷泉家の年中行事より

旧公家の冷泉家の端午の節句飾り。競漕を模した飾りつけ、武者人形、鍾馗の絵、菖蒲、家紋幟がありますね。

鯉幟(こいのぼり)と五色の吹き流し

鯉のぼりの歌の影響でしょうか。こどもの日といえば鯉のぼりが思い描かれます。江戸時代になると庶民の間で鯉幟を揚げる習慣がでてきます。鯉のぼりは鯉が滝を昇りいずれ龍となるという昇竜伝説にあやかり子供の立身出世を祈るものです。

鯉のぼりの一番上には五色の吹き流しがあります。これは陰陽五行説の木、火、土、金、水を意味しこの五つの要素が揃うことで吉祥になります。

シーボルト「NIPPON] より

端午の節句の食べ物

中国では古くから端午の節句に食べる粽は疫病から身を守り、家族の健康を守ると信じられています。春秋時代に楚の国の大変高名な詩人、屈原(くつげん)が泪羅という川で命を落としたのが五月五日でした。屈原の死を悲しんだ人々が、命日に供物のもち米を水面に投じて供養したのが、粽のはじまりだといわれています。人々は供物が屈原に届く前に龍に盗まれないように、龍が苦手な笹の葉で包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛って川へ投げたことから、五月五日に粽を作り、厄除けを願う風習が日本にも伝わりました。「龍を象った船で競漕」する習慣はこの屈原を助けるためにだした船と粽を食べてしまう龍を意味するものと云われています。

日本の粽は本葛と水と砂糖だけで作られた水仙粽です。赤・青・黄・白・黒の五色の紐で粽を結んで食した家族の無病息災を祈ります。

柏餅

柏餅を包む柏の葉は、日本では祭事の神饌を盛る器(柏の家紋ページへ)として神聖なものとされてきました。端午の節句に柏餅を食べる習慣は、江戸時代に広まったそうです。「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という柏の特性から、柏餅は子孫繁栄を象徴する縁起の良いお菓子です。

端午の節句には、関東では柏餅、関西では粽を食べるのが主流とされています。中国から端午の節句とともに粽が伝来したのは平安時代。端午の節句が五節句のひとつになった江戸時代には、柏餅を食べることが江戸の主流となり、伝統を重んじる上方では粽を伝承したといわれています。

 

端午の節句の室礼

端午の節句とは、「こどもの日」というよりも本来の意味は、「穢れや不吉が深まり易い時期に特に身を清め穢れを祓い、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈る」節句でした。

他の節句と同様に居処を室礼で整えて、神様とご先祖様に感謝し、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈りたいです。

甲冑を飾り菖蒲を活けて、三方に神饌としての柏餅をお供えします。お子様の名前を記した命名旗や名前旗を飾り、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈ります。

費用をかけなくとも心遣いは伝わります。年中行事を日常に是非取り入れてみて下さいね。

節分 (立春前日)

節分というと2月3日の豆まきの行事のイメージですが、実は一年に4回あります。一年を春夏秋冬の4つの季節の分け、その季節の最後の日を節分とします。立春、立夏、立秋、立冬がその季節の始まりとなるので、その前日が前の季節の最後の日、節分というわけです。

この立春前の節分が殊更重要なために、他の節分の影が薄くなっています。年賀状に「迎春」と大きく書くことがありますが、この春とは「立春」を意味します。二十四節気における立春は旧暦のお正月の日に近く、一年の始まりを意味するものなのです。従って立春前日の節分は「大晦日」の意味合いが強く、まさしく一年の最後の日、厄除け厄払いが行われる日なのです。

豆まきの由来

宮中における弓の弦を鳴らして鬼追いをする儀式「追儀(ついな)」が現在の豆まきの形に変化したといわれています。農村では、節分の夜に戸口や軒下に柊(ひいらぎ)の小枝に鰯(いわし)の頭をさした「やいかがし」を差します。鬼を遠ざけるといわれます。

炒った豆は、お供えしてから家の外へ向かってまき、年の数だけ豆を食べます。豆は「魔目」「魔滅」に通じ、立春前日に災いや厄病をもたらす鬼を追い払い、春をもたらす神様を迎えて豊穣を祈る儀式なのです。

鬼のイメージの謎

日本における「鬼」は歌にもある通り「トラのパンツ」なるものを穿いています。頭部には角がはえており髪は大体もじゃもじゃです。ストレートヘアーの鬼はみかけません。日本に虎はいないので海の向こうから来たのでしょうか?とても強そうです。

鬼のイメージ
新・講談社の絵本 桃太郎 より

虎、角には理由があります。下の方位図を見ると1月と2月の間が「丑」「寅」の境目になって、北と東の間、つまり北東が「艮(うしとら)」となっています。北東は「鬼門」の方角になり占い事では慎重な扱いをしている方角になります。

方位図

つまり、「鬼」とは災いや厄の象徴であると同時に、「鬼門」が丑の角、虎の皮を以て表現された方位の象徴であるといえます。立春の前日の節分に厄払いや鬼追い行事は大変重要であったということです。(やらなかった場合のことを考えると、新年がうまくやり過ごせない気がしてきます)

節分の室礼

節分は大晦日同様の意味を持つ年中行事で、一年の厄を払い春を迎える行事です。「柊」「やいかがし(イワシの目刺しなど)」と「炒った豆」をお供えします。一緒にお子様の名前を記した「名前旗」「命名旗」を飾ることで、お子様の厄払いと無病息災を祈り新たな気持ちで春を迎える意味になります。

 

お父さんに鬼の面をかぶせ、家族みんなで一緒に豆まきをする。子供たちにとり、とても楽しい思い出になるでしょう。日本中の子供たちが楽しく豆まきをしてほしいと願っています。

 

 

当店FamilyStyleでは、年中行事やお節供(お節句)の際に、名前旗や命名旗を飾ることをお勧めしています。お供えには木製三方があると場が引き締まります。

 

小正月

旧暦の1月1日のお正月は、当然ながら新月で真っ暗なお月さまです。旧暦は月の満ち欠けを基準に暦にしているから1年最初の月の初日も新月と決まっています。

そのお月さまがだんたんと厚くなり、1年で最初の満月を迎える1月15日が小正月にあたります。小正月は1年最初の満月を祝う行事です。小正月の前夜には正月飾りや門松などを片付けて左義長の準備をします。

主に農村部では、豊作を祈る行事として農作物を象った飾り物や、養蚕の盛んな地域では繭を象った餅をつくったりします。繭玉は餅花ともいいますが、その繭玉を左義長の焚火で炙って食べるとその1年を無病息災で過ごせるといいます。これは新年初めての満月の夜に、予め花や実がたわわに実っている豊作の状態をつくることで現実がそのようになることを働きかける「予祝(よしゅく)」の行事です。

小正月には、赤い食物である小豆でつくったお汁粉をたべると魔除けになるもいわれ、鏡開きで残った餅を入れて食します。

繭玉
だんご粉に食紅を垂らして練りこむと紅餅になります。小さい繭玉をたくさんつけたほうがキレイに見えますね。雑すぎました。子供たちと一緒に繭玉を作るといい思い出になりますね

 

小正月の室礼

お正月に活けたお花に梅や桃、桜があれば、丁度良く繭玉をさす枝になります。

お子様の名前を記した名前旗や命名旗も一緒に飾って、一年の無病息災を祈ります。

小正月の室礼

繭玉の作り方

材料:だんご粉 食紅赤

  1. 市販のだんご粉、上新粉に水を少量づつ入れて練りこみます。だんご粉の袋裏側に粉に対して水の分量が記述されていますが、一気に入れず少量づつ練りながら入れるのがコツです。
  2. 練りこんだ生地を半分に分けます。片方に食紅赤を少量いれて練りこみピンクの繭玉の素を作ります。片方には食紅は入れないので紅白の繭玉の生地がそろいます。
  3. 上記 2 の紅白の生地を10分ほど蒸します。蒸し器でなくても、お鍋の底に水を張ってその上に耐熱皿を置き、キッチンシートの上に生地をおいてもよいです。
  4. 蒸しあがった 3 の生地をヘラなどで練ると弾力が出ます。それを温かいうちに枝にさしたり、くっつけたりして繭玉が完成です。

幼児は粘土遊びが好きなので、一緒に繭玉つくりをするときっと楽しい思い出になると思いますよ!

小正月には、12月の「正月事始め」から忙しく働き通しだった婦人の皆さんを労い、この小正月を「女正月」としている地方もあります。この日はご婦人がただけでお酒を飲む風習があるそうです。

お正月も現代では大体この日でおしまいです。お正月の期間活躍してくれた命名旗や名前旗も一旦お休みして、三方などと一緒にしまっておいてもいいですね。とはいえ、次回は立春と節分と年中行事は続きます。

 

左義長・どんと焼き

左義長(さぎちょう)は、正月飾りを焚いて祓い清める小正月に行われる行事です。

1月14日の夜または1月15日の朝に、正月飾り(注連飾りや門松)や書き初めの書、昨年の達磨などを焚いて1年の無病息災、五穀豊穣を祈りながら年神様を送ります。

その火で焼いた団子や餅、繭玉を食べると、その年は無病息災で過ごせるといわれます。又、書き初めを焼くと書道の上達をのぞめるといいます。

地域によりその名称は様々で、「どんと焼き」「道祖伸まつり」「オンペ焼」などともいいます。元は宮中の清涼殿で行われていた儀式です。

 

実家の庭先で左義長を行いました

左義長
冬の関東は乾燥しているので火の取り扱いは厳重注意です。 正月飾りや門松を焚きます。

 

左義長
昨年の目標は達成できませんでした。 達磨さん片眼でスイマセン

 

餅花はなかったので焼き芋にしました。

 

残った灰は畑の土と混ぜてしまいました。灰はアルカリ性なので土の酸性土壌を中和する効果があります。灰の中にある針金や釘、達磨さんの底の重しなど丁寧に取り除きましょう。

鏡開き

昨年12月から年神様をお迎えするために、お家の一番良い場所にお供えした鏡餅を1月11日に下ろし、お汁粉や雑煮などの料理を家族で食すことを「鏡開き」といいます。

元々は1月20日に行われてきたこの行事、江戸時代の将軍、徳川家光公がなくなり忌日となったために11日(士?サムライの意味でしょうか?)に改められたともいわれます。武士の家では鏡餅を「具足餅」ともいい、先祖代々に伝わる甲冑の前にお供えするものでした。鏡開きを「具足開き」と呼び、雑煮に餅を入れて食すことを「刃柄を祝う(はつかをいわう)」という行事でした。

鏡餅(具足餅)は魂のこもったものとして、これを刃物で切ることを嫌い木槌などで固くなった鏡餅を叩いて細かくするのです。おめでたい行事では、忌み言葉を避けておめでたい言葉を使うものです。

 

現代の住宅は冬でもとても暖かいので、鏡餅をカビから守るために真空パックされているものが大半です。真空パックされた鏡餅はとても「開き」難くて大変です。

木槌などではとても細かくできません。我が家では、竹で楔(くさび)を作って鏡餅を開いています。

富山のマス寿司 に竹でできた「絞め木」がついています。このうちの一つを削り楔を作りました。この楔を以て鏡餅を開くのです。

 

鏡開きした餅は「お汁粉」「ぜんざい」のような、小豆という赤い魔除けのある食物を用いて食することで厄除けの意味を持ちます。家族全員で鏡開きで作ったお汁粉を頂き、皆の無病息災を祈る家族愛にあふれた行事です。

 

人日の節供 七草粥

正月七日は「七日正月」と呼ばれ、朝に七草粥を食して無病息災を祈る行事です。

人日の節供

上巳(じょうし)、端午、七夕(しちせき)、重陽(ちょうよう)と並び、一年の五大節供の一つである人日の節供(じんじつのせっく)は大陸に起源のある習慣です。

大陸では、1月1日を「鶏の日」、1月2日を「狗(いぬ)の日」、1月3日を「家猪の日」、1月4日を「未の日」、1月5日を「丑の日」、1月6日を「午の日」として、それぞれの家畜を大切にしました。1月7日は「人の日」として犯罪者への刑罰を行わない日とされたのが人日(じんじつ)の由来です。

新年を迎えてからは、「人日まで爪を切ってはならない」ということなので7日を以てやっと爪を切ることができます。

七草粥

正月6日の夜から7日の朝までを「六日年越し」といい、松の内最後の日に人日の節供が行われます。

因みに松飾りや門松はこの六日年越し、6日の夜に取り払います。

芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ)・鈴菜(すずな)・清白(すずしろ)の春の七草を六日の日中に摘み、七日の朝に刻み粥と食すことを七草粥といいます。七草を食すことで邪気を払い無病息災を祈る、家族に対する愛情のこもった行事です。。

  • 芹は沢沿いの水辺などで一年中採ることができます。
  • 薺(なずな)はペンペン草のことで解熱、利尿、止血作用があります。
  • 御形(ごぎょう)は母子草とも呼ばれ、草餅の材料にもなります。
  • 繁縷(はこべら)も山野で一年中採ることができます。
  • 仏の座(ほとけのざ)はタンポポの葉のような形をしています。
  • 鈴菜(すずな)は蕪のこと
  • 清白(すずしろ)は大根のこと春の七草芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ)・鈴菜(すずな)・清白(すずしろ)

本来は旧暦の時期に行われてきたこの行事、新暦の現在では食材集めはすっかりスーパーマーケット頼みになりました。

七草を刻む時に唄う「七草囃子」というものがあります。

「七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に ストトンストトンストトトン」

「唐土の鳥」はなにやらインフルエンザを暗示しているように感じられますね。この怪鳥は「人の爪」が好きらしく人日の節供までは爪を切らないという習慣もこの怪鳥に原因がありそうです。

七草囃子の歌詞には地方色があります。「ストトンストトンストトントン」の部分が「トトバタリトンパタリ」「ストトントントン」「セリコラタタキノタラタタキ」など様々です。

我が家では子供たちが楽しそうに(妙に盛り上がって)唱って野菜を叩いていましたよ。その後の食した七草粥は苦手だったようで泣きながら口に運んでいました。

みんな元気に育ってね!

 

亥の子餅を作ってみました

亥の子とは最近耳慣れない言葉になっていますが、旧暦10月亥の日に餅、又はぼた餅を食す習慣のことで、この日に食べる餅を「亥の子餅」と呼び「玄猪(げんちょ)」「亥の日の祝」「亥の子餅の祝」としてまつります。主に西日本に多い風習です。

古来の亥の子餅は、小さく俵状に形造った餅に大豆(きなこ)、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の7種を混ぜた粉をまぶして五色にしたもの。または白、黒、赤の三色に色付けしたものと考えられますが地域差があり定かではないようです。

和菓子屋さんでもこの時期に亥の子餅として販売しているお店が少ないので、三色の亥の子餅を作ってみることにしました。

材料

  • だんご粉 又は 上新粉
  • きなこ
  • すり黒ゴマ
  • さらしあん
  • 砂糖(きなこ・すりごま黒に混ぜておきます)

工程

だんご粉
市販の団子粉、又は上新粉を用意します。
団子粉をこねる様子
水を少しづつ足して全体になじむように練りこみます
塊になるように練りこみます。
俵状に形を整えます。俵の形が瓜坊(イノシシの子供)に似ているからという意味です

この後はだんご粉の場合は①熱湯の入った鍋に入れて5分ほど茹でる 上新粉の場合は②蒸してからさらに餅つきの要領で粘り気を出して、形を整えます。

私は手間のかかった分②の方がおいしいと思います。

塗す材料:赤「さらしあん」 黄色「きなこ」 黒「すりごま黒」
赤「さらしあん」 黄色「きなこ」 黒「すりごま黒」の三色を用意して、お団子に塗します。
さらしあん とは粉状の「あんこ」です
三色の亥の子餅
三色の亥の子餅が出来ました
一の亥の子 は「菊」を添えてお供えします。文献では忍(房の付いた組紐)も添えるようなのであるもので飾ってみました。
サンプル ↑

 

因みに、二の亥は忍緒と紅葉、三の亥は忍緒と銀杏を添えてお供えします。

10月は12日間に一回ずつ亥の子餅をつくるの!?

お団子つくりは子供たちが楽しそうにお手伝いしてくれます。自分たちで作った亥の子餅をお供えして、親戚や知人に配ったりしていると、この年中行事が家族の無病息災や繁栄を祈るためものであることに改めて気付かされてしまいます。是非、ご一緒にお子様のお名前を記した命名旗、名前旗を飾ってみてください。ご両親だけでなく子供達にもきっと心に残る思い出になることでしょう。

 

亥の子

亥の子とは

旧暦10月の10日(亥の日)は亥の子と呼ばれる収穫祭の意味合いを持つ行事です。別名「玄猪(げんちょ)」「亥の日の祝」「亥の子餅の祝」とも呼ばれ、関東では「十日夜(とおかんや)」ともいいます。「十月亥の日の亥の刻(21時-22時くらい)に餅を食べると病気にならない」という大陸の伝承が起源で、この日は田の神に「亥の子餅」をお供えして収穫への感謝、家族の無病息災いを祈りお祝いをします。

元は宮中の祭礼で、宮中では「御玄猪(おげんちょ)」といい、一の亥は忍(しのび:房付きの飾紐)と菊、二の亥は忍と紅葉、三の亥は忍と銀杏を添えて飾ります。京都の護王神社では亥の子餅つきの神事を再現した「おつき式」でついた亥の子餅を神前に供えると共に調貢行列(ちょうけんぎょうれつ)をつくって京都御所へ献上します。

亥の子餅のお供え
復元江戸生活図鑑 笠間良彦著 柏書房より

源氏物語にも登場してくる亥の子餅

亥の子餅は源氏物語にも登場します。光源氏が若紫と初枕を交わした次の朝が一の亥で、五色の亥の子餅を見た光源氏が乳母の子の惟光に、婚儀の三箇夜餅(みかよもち)もつくるようほのめかす場面です。亥の子餅自体の描写はありませんが、生活習慣として定着していて誰もが知っていることのように思われます。

庶民の亥の子

猪の多産にあやかり、子孫繁栄と無病息災を祈願する宮中行事でしたが、徳川幕府も行うようになったので武家でも祝うようになり、次第に庶民にひろまりました。農村ではちょうど稲刈りの時期にも重なるために次第に収穫祭としての意味合いが強くなっていったようです。

東日本では旧暦10月10日の夜に、藁を固く束ねた藁鉄砲(わらでっぽう)で地面を叩く風習があります。この日は豊穣を司る神様が山へ帰る日とされ、収穫への感謝と翌年の豊穣を願い餅や大根などの供物が捧げられます。藁鉄砲で地面を叩くことにより、畑を荒らすモグラを除き、大地の生産力を高める意味があるといいます。子供達が藁鉄砲で地面を叩きながら農家を回っていくと、先々でお菓子をもらえます。日本オリジナルのハロウィーンのようなものです。地域で子供達を大切にしているんですね。

炉開き

猪は火を防ぐ動物と考えられており、亥の子の日から炬燵(こたつ)や囲炉裏に火を入れ始めると火災にならないともいわれます。茶道では釜炊きを風炉から地炉にする時期で、新茶の封を切って茶席を設ける「茶人の正月」も亥の子にするものです。

亥の子の日の室礼

亥の子は「十五夜のお月見」「十三夜のお月見」と同様に収穫祭の意味合いがあります。子孫繁栄、子供の成長、家族の無病息災を祈る行事でもありますので、「亥の子餅」のお供えと一緒にお子様のお名前を記した命名旗や名前旗を一緒に飾ってみてはいかがでしょうか。

三方に載せた亥の子餅のお供えと一緒に家紋名前旗を飾りました。お子様の健やかなる成長を祈念する意味合いになります。

室礼 重陽の節句 

室礼という言葉は、山本三千子さん著の「室礼」から拝借しました。以下抜粋です。

美しいものを美しいと感じる心のゆとりを持って旬のものを盛る時、こうした”心”が”形”となって「室礼」という文字に魂が入ります。

室礼に道具の豪華さや質、量は関係ないものです。ささやかなことをするだけでも子供たちの心に「我が家流の行事」として刻まれ、

やがて親となったときにその美しい習慣を受け継いでいくでしょう。室礼は形ではなく、「心」です。

重陽の節句の飾り付け

古くは五節句のひとつとして盛大に祝っていたこの行事ですが、現代ではすっかり影が薄くなっています。とてももったいないことです。

お節句は家族の無病息災を祈り、神様ご先祖様への感謝をする行事ですので、ぜひご家庭でもお祝いしてほしいと思っています。

実際に、宮中行事と同じことを行うことは敷居が高いと思いますので、簡易的な菊の活用を提案します。

 

菊を飾る

手軽な華器として100円ショップにあるラタンボールを使ってみます。無着色のものが良かったのですが売り切れていました。

名前旗の下台にラタンボールを置いてドライフラワーを挿していきます。

足元に置くと柄のない命名旗、名前旗はいいと思います。この旗は柄があるのでちょっとうるさいかな?

今度はラタンボールに紐を通して、旗竿に掛けてみました。

この旗は、家紋がないので上の方に飾りが付いて、いい具合になりました。

皆さんも身近な道具で室礼を楽しんでみては如何でしょうか。