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菖蒲菱(秩父三峯神社神紋)
三峯神社由緒には「菖蒲菱」とあります。
修験道の役小角が修行をしたことから仏教色の残る神社です。奥宮は「妙法ケ岳」という仏教のお経のような名前の山にあります。
以下転載です。
淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、社殿の脇に本堂を建て本地堂としました。
こうして徐々に佛教色を増し、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。
鎌倉期から畠山重忠などの東国武士を中心に篤い信仰をうけていましたが、正平7年(1352)足利氏を討つ兵を挙げた新田義興・義宗等が、戦い敗れ当山に身を潜めたことから、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。
文亀二年(1503)、修験者月観道満がこの荒廃を嘆き、27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
天文2年(1533、)山主龍榮が京都の聖護院へ参じ、「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。
更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後の山主は、十万石の格式をもって遇れました。
現在社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まりました。
以来信者も全国に広まり、三峯山の名は全国に知られました。
その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。
花山院流は「杜若紋」を多く使用していますので、菖蒲と杜若がここでも混乱しているように思えます。因みに花山院とは平安時代の冷泉天皇の第一皇子である花山天皇が出家したことで分かれた家系です。
たしかに似た植物を文様や紋章にしてしまうと植物の意匠元が判りづらいので仕方がないですね。後世の者が何を指摘しても無意味です。伝承で「菖蒲(あやめ)」と伝わっているのですから「菖蒲」が正しいです。
中山杜若
別名 対い杜若菱
使用家
花山院家:藤原北家師実流公家
白川家:花山院源氏流にて花山天皇皇子、清仁親王より出る。
中山家:藤原北家花山院流
野宮家:藤原北家花山院庶流の公家
佐々木掛け轡
見聞諸家紋に佐々木氏が載る。佐々木掛け轡は仮称です。
松皮菱掛け轡
見聞諸家紋に大草氏が載る。松皮菱掛け轡は仮称です。