七夕の節句

7月7日は「七」が重なる七夕の節句「しちせきのせっく」で五節句の一つに数えられます。

陰陽五行説において奇数は陽ですが、月と日の陽が重なると陽の気が強すぎて悪日とされます。そのような重日に神様を招いて料理をお供えしてお祀りし、禊払いをすることを節供または節句といいます。

七夕は「たなばた」と読みますが、子供の頃、なぜ七が「たな」で、夕が「ばた」なのだろう。又、空は水蒸気でぼんやりとしていて、毎年雨の7月7日ばかり迎えて伝説の彦星と織姫は一体いつ会えるのだろうかと不思議に思っていました。

「七夕の節句」は正確には「しちせきのせっく」と読みます。なぜ「しちせき」は「たなばた」の通り名になったのでしょうか。

 

古代中国の七夕

私たちがよく知る「牽牛と織女(彦星と織姫)の伝説」は相当に古く、中国の文献によると古代王朝の商、周の木簡に既に記録があるようです(亀甲文字で書かれていたのでしょうか?)。後漢のころには物語として整っています。お話のあらすじはこのような感じです。

むかし、天帝という神様が星空を支配していた頃、働き者の牽牛という牛飼いがおりました。天帝はその働きぶりに感心して、自分の娘である織女と娶せることにします。牽牛と織女は毎日幸せに暮らすのですが、全く怠慢になり仕事をしません。織女は布を織らなくなったので天界では布が足らなくなり、一方の牽牛の牛たちも痩せ細って弱ってしまいました。それを見た天帝は怒り、二人を天の川の両岸に引き離し、1年に1度、7月7日の日にだけ合うことを許したのです。

牽牛をわし座の1等星アルタイル、織女をこと座の1等星・ベガに見立てています。その後、民間では牽牛、織女だけでなく文昌帝君、魁星、朱衣神、呂祖、関帝の諸神を星に見立て(司馬遷の『史記』天官書には、魁星とは北斗七星の第一星から第四星、「北斗の魁星をいただいて、これを助ける六つの星を文昌星という」と記されています)7月7日に一緒に信仰するようになって、科挙合格や、仕官を願うような習慣になります。

又、西王母という女仙が7月7日に漢の武帝を訪れたという伝承と相まって、七夕の節句は漢の公式行事となり権威が高まります。

中国では七夕節を乞巧節とも呼び、女性が縫い針を水面に浮かべ、その針の水底にある影をみて針仕事の技術向上を占う習慣がありました。この習慣は後世まで流行して各王朝の宮廷で行われ、乞(願う)巧(たくみ)奠(神前に物をそなえてまつる)という乞巧奠(きっこうでん)といいます。

乞巧奠の様子
宮中乞巧奠の様子 中国节 李露露 著より

日本における七夕

日本においては、天から降りてくる水神様を迎えて祀るため、7月6日の夕方から7日にかけて水辺の機屋(はたや)に籠もり美しい神衣を織る乙女(巫女)を棚機津女(たなばたつめ)の伝承があります。棚機津女の元を訪れた水神が、7日の朝にお帰りになる際、人々が水辺で身を浄めることで一緒に災難を持ち帰ってくれるといわれています。七夕の日に七回食べてその度に水に籠って身を清める地域もあります。この棚機津女と大陸の七夕の習慣が大陸から伝わるとこれらの習慣は融合し、日本独特の変化をします。

大陸の乞巧奠が針仕事の上達を神に祈る習慣である一方、同じ布仕事である棚機津女という伝承が混同してしまい、字は七夕(しちせき)、読みは棚機(たなばた)に、習慣自体も大陸のそれと日本のものとが一緒になってしまったようです。

宮中のおける七夕

奈良時代には宮中において「七夕の節会」が行われています。平安時代には明朝の乞巧奠になぞらえ、詩歌の宴が盛大におこなわれるようになります。宇多天皇の命に応えて菅原道真が詠んだ七夕の漢詩には、文昌星をして宇多天皇の文治を讃えています。宮中の七夕は自身の教養の高さを誇る最高の 舞台で、朝まで星や織姫伝承にまつわる歌を詠みあうそうです。

その他、菅原道真公が七夕に因んで読んだ句に

ひこ星の行き会いをまつかささぎの渡せる橋をわれにかさなむ

と、彦星と織姫が会うために七夕の一晩だけ鵲(かささぎ)が渡す橋を貸してほしい(京に戻りたい) というものがあります。

大宰府に流された道真公の無念が現れた句です。

星に願い

七夕の願い事は、織姫彦星や星に見立てた文昌帝君、魁星、朱衣神、呂祖、関帝の文芸、学問に関する神様にします。ご先祖様や年神様などの神様ではありません。これらは皆、天の星で、他の年中行事とは異なっていて興味深いです。

天に向いた庭に祭壇を設けて、火口が七つある燭台の灯明(北斗七星を示す?)、秋の七草、衣類などを手向けます。

天川とほきわたりにあれねども君が船出はとしにこそまで

(天の川はそれほど遠い渡し場というわけではないが、あなたの船出は1年かけて待っていることだ)

この柿本麻呂の歌を芋の葉に溜まった露を集めた水で墨をすり梶の葉に書いたものを笹に短冊や色紙とともに吊るして、星へ手向けるのです。

 

梶の葉に古歌を記す
七夕のお供え
七つの火を灯した燭台と上の梶の葉を秋草と共にをお供えする 冷泉家の年中行事 より

 

皆さんのご家庭で七夕飾りを作る際、梶の葉を吊るしてみて下さいね。梶の葉型データをダウンロードできますから、1枚の用紙にそれぞれ片面ずつ印刷して切り抜くと「梶の葉」が出来上がります。

 

梶の葉飾り-輪郭.pdf

 

梶の葉飾り-緑.pdf

笹飾りの中央にある「梶の葉」がつくれますよ。

乞巧奠

日本の乞巧奠(きっこうでん)は短冊に歌や願いを書いて、笹の葉に飾りと共に吊るします。願い事は文字や裁縫の上達です。これが七夕に笹の葉を飾る原型です。

乞巧奠の飾り付
季節の農作物、五色の糸、五色の布、歌をかいた梶の葉の他、琵琶、琴など芸事の道具を一緒に供えます。

裁縫の上達を願うので、五色の糸や五色の布を供えます。その他、農作物と楽器の上達を願う人は楽器を供えます。

旧暦の7月は「文月」とよばれるのは、こうした短冊に歌や願いを書くことが由来なのかもしれませんね。

七夕飾りの短冊に書く願い事

幼稚園で七夕の行事があったので、参観がてら願い事を覗いてみますと時代を反映して面白いことが書いております。「野球選手になりたい」「ケーキ屋さんになりたい」は昭和から変化がありませんが、「ぷりきゅあになりたい」「ポケモンになりたい」となってくると好きなキャラクターそのものになりたいわけで、プリキュアは職業かよと思ってしまいます。幼稚園では短冊に書くことは「願い事ならなんでもよい」となっているので園児に罪はありません。

元々の乞巧奠から私たちが本来短冊に書くべき願いとは自分の技術向上や上達で、子供たちの弛まぬ努力を促すものが望ましいと思います。七夕飾りを作るときや、七夕の季節の料理を食べる際に命名旗、名前旗を飾って子供たちの成長を祈る日にしてください。

 

七夕は秋の行事?七夕とお盆の関係

又、現代日本において七夕は初夏の節句のイメージですが、大陸では「秋の節句」になります。これは現代の暦ではなく旧暦を用いているためで、実際の七夕はひと月遅れの8月に行われます。これが現代日本において天の川が雨天で見られない原因ですね。

当然、明治の改暦以前は日本でも旧暦(といってよいのか?)で年中行事が行われておりました。旧暦の7月7日あたりはお盆の季節、お盆準備の季節にあたり、この七夕風習とお盆風習がなんとなく似た景観になります。五節句の中で地味なイメージなのはお盆が関係していると思うのは私だけでしょうか?

たとえば、牽牛とお盆飾りの茄子で出来た牛という牛つながりや、水で身体を清める行事と笹の葉を川に流す行事の水つながり。七夕は禊(みそぎ)というお盆準備の側面があったように思われるのです。