七夕の室礼

七夕の節句

七夕の節句とはこのような日になります。

  • 七夕の節句は、7月7日という陽の気が強すぎる悪い日です。
  • そのような悪日には、神様を招いて料理をお供えしてお祀りし禊払いをします。
  • 彦星と織姫伝説において7月7日は鵲が天の川に橋を作り、二人が会える日です。
  • 自身の針仕事や書の上達を、織姫に願う「乞巧奠(きっこうでん)」が七夕飾りの原型です。
  • 自身の立身出世を星に願う日でもあります。

七夕の室礼において命名旗、名前旗を飾ることは、陽の気が強すぎる日に災いから家族とお子様を守り、手習い事の上達と学業成就を願う意味になります。

 

七夕の節句の室礼

七夕の室礼
神様へお供えとして、季節の青物野菜とお菓子を用意しました

古代の乞巧奠では果物ではなく青物をお供えしたようです。 今年は京都から「清竹」という水ようかんをお取り寄せしてお供えしました。

笹と竹、青物と青竹という組み合わせがいい感じです! 大変おいしく頂きました!

お供えしてから家族で頂くと、無病息災でいられる気がいたします。

 

笹には、五行に基づく緑、赤、黄、白、黒の色の短冊にお飾りと、梶の葉に見立てた飾りをつけました。冷泉家では梶の葉に柿本人麻呂の

天川とほきわたりにあれねども君が船出はとしにこそまで

という七夕に因んだ句を書いて、星に手向けています。

このような飾り付け以外にも、「習い事のお道具」たとえば、楽器やそろばん、バレエ衣装やボールなんかも飾るといいですね。習い事に情熱を傾けている子供たちへ上達したい気持ちに応援と見守る気持ちをそえて。

子供たちの願いが届き元気に育ちますように!

 

当店、刺繍屋さんなのに五色の糸を飾っていない…… やってしまった。

 

七夕の節供

7月7日は「七」が重なる七夕の節供「しちせきのせっく」で五節供(五節句)の一つに数えられます。

陰陽五行説において奇数は陽ですが、月と日の陽が重なると陽の気が強すぎて悪日とされます。そのような重日に神様を招いて料理をお供えしてお祀りし、禊払いをすることを節供または節句といいます。

七夕は「たなばた」と読みますが、子供の頃、なぜ七が「たな」で、夕が「ばた」なのだろう。又、空は水蒸気でぼんやりとしていて、毎年雨の7月7日ばかり迎えて伝説の彦星と織姫は一体いつ会えるのだろうかと不思議に思っていました。

「七夕の節句」は正確には「しちせきのせっく」と読みます。なぜ「しちせき」は「たなばた」の通り名になったのでしょうか。

 

古代中国の七夕

私たちがよく知る「牽牛と織女(彦星と織姫)の伝説」は相当に古く、中国の文献によると古代王朝の商、周の木簡に既に記録があるようです(亀甲文字で書かれていたのでしょうか?)。後漢のころには物語として整っています。お話のあらすじはこのような感じです。

むかし、天帝という神様が星空を支配していた頃、働き者の牽牛という牛飼いがおりました。天帝はその働きぶりに感心して、自分の娘である織女と娶せることにします。牽牛と織女は毎日幸せに暮らすのですが、全く怠慢になり仕事をしません。織女は布を織らなくなったので天界では布が足らなくなり、一方の牽牛の牛たちも痩せ細って弱ってしまいました。それを見た天帝は怒り、二人を天の川の両岸に引き離し、1年に1度、7月7日の日にだけ合うことを許したのです。

牽牛をわし座の1等星アルタイル、織女をこと座の1等星・ベガに見立てています。その後、民間では牽牛、織女だけでなく文昌帝君、魁星、朱衣神、呂祖、関帝の諸神を星に見立て(司馬遷の『史記』天官書には、魁星とは北斗七星の第一星から第四星、「北斗の魁星をいただいて、これを助ける六つの星を文昌星という」と記されています)7月7日に一緒に信仰するようになって、科挙合格や、仕官を願うような習慣になります。

又、西王母という女仙が7月7日に漢の武帝を訪れたという伝承と相まって、七夕の節句は漢の公式行事となり権威が高まります。

中国では七夕節を乞巧節とも呼び、女性が縫い針を水面に浮かべ、その針の水底にある影をみて針仕事の技術向上を占う習慣がありました。この習慣は後世まで流行して各王朝の宮廷で行われ、乞(願う)巧(たくみ)奠(神前に物をそなえてまつる)という乞巧奠(きっこうでん)といいます。

乞巧奠の様子
宮中乞巧奠の様子 中国节 李露露 著より

日本における七夕

日本においては、天から降りてくる水神様を迎えて祀るため、7月6日の夕方から7日にかけて水辺の機屋(はたや)に籠もり美しい神衣を織る乙女(巫女)を棚機津女(たなばたつめ)の伝承があります。棚機津女の元を訪れた水神が、7日の朝にお帰りになる際、人々が水辺で身を浄めることで一緒に災難を持ち帰ってくれるといわれています。七夕の日に七回食べてその度に水に籠って身を清める地域もあります。この棚機津女と大陸の七夕の習慣が大陸から伝わるとこれらの習慣は融合し、日本独特の変化をします。

大陸の乞巧奠が針仕事の上達を神に祈る習慣である一方、同じ布仕事である棚機津女という伝承が混同してしまい、字は七夕(しちせき)、読みは棚機(たなばた)に、習慣自体も大陸のそれと日本のものとが一緒になってしまったようです。

宮中のおける七夕

奈良時代には宮中において「七夕の節会」が行われています。平安時代には明朝の乞巧奠になぞらえ、詩歌の宴が盛大におこなわれるようになります。宇多天皇の命に応えて菅原道真が詠んだ七夕の漢詩には、文昌星をして宇多天皇の文治を讃えています。宮中の七夕は自身の教養の高さを誇る最高の 舞台で、朝まで星や織姫伝承にまつわる歌を詠みあうそうです。

その他、菅原道真公が七夕に因んで読んだ句に

ひこ星の行き会いをまつかささぎの渡せる橋をわれにかさなむ

と、彦星と織姫が会うために七夕の一晩だけ鵲(かささぎ)が渡す橋を貸してほしい(京に戻りたい) というものがあります。

大宰府に流された道真公の無念が現れた句です。

星に願い

七夕の願い事は、織姫彦星や星に見立てた文昌帝君、魁星、朱衣神、呂祖、関帝の文芸、学問に関する神様にします。ご先祖様や年神様などの神様ではありません。これらは皆、天の星で、他の年中行事とは異なっていて興味深いです。

天に向いた庭に祭壇を設けて、火口が七つある燭台の灯明(北斗七星を示す?)、秋の七草、衣類などを手向けます。

天川とほきわたりにあれねども君が船出はとしにこそまで

(天の川はそれほど遠い渡し場というわけではないが、あなたの船出は1年かけて待っていることだ)

この柿本麻呂の歌を芋の葉に溜まった露を集めた水で墨をすり梶の葉に書いたものを笹に短冊や色紙とともに吊るして、星へ手向けるのです。

 

梶の葉に古歌を記す
七夕のお供え
七つの火を灯した燭台と上の梶の葉を秋草と共にをお供えする 冷泉家の年中行事 より

 

皆さんのご家庭で七夕飾りを作る際、梶の葉を吊るしてみて下さいね。梶の葉型データをダウンロードできますから、1枚の用紙にそれぞれ片面ずつ印刷して切り抜くと「梶の葉」が出来上がります。

 

梶の葉飾り-輪郭.pdf

梶の葉飾り-緑.pdf

 

笹飾りの中央にある「梶の葉」がつくれますよ。

乞巧奠

日本の乞巧奠(きっこうでん)は短冊に歌や願いを書いて、笹の葉に飾りと共に吊るします。願い事は文字や裁縫の上達です。これが七夕に笹の葉を飾る原型です。

乞巧奠の飾り付
季節の農作物、五色の糸、五色の布、歌をかいた梶の葉の他、琵琶、琴など芸事の道具を一緒に供えます。

裁縫の上達を願うので、五色の糸や五色の布を供えます。その他、農作物と楽器の上達を願う人は楽器を供えます。

旧暦の7月は「文月」とよばれるのは、こうした短冊に歌や願いを書くことが由来なのかもしれませんね。

七夕飾りの短冊に書く願い事

幼稚園で七夕の行事があったので、参観がてら願い事を覗いてみますと時代を反映して面白いことが書いております。「野球選手になりたい」「ケーキ屋さんになりたい」は昭和から変化がありませんが、「ぷりきゅあになりたい」「ポケモンになりたい」となってくると好きなキャラクターそのものになりたいわけで、プリキュアは職業かよと思ってしまいます。幼稚園では短冊に書くことは「願い事ならなんでもよい」となっているので園児に罪はありません。

元々の乞巧奠から私たちが本来短冊に書くべき願いとは自分の技術向上や上達で、子供たちの弛まぬ努力を促すものが望ましいと思います。七夕飾りを作るときや、七夕の季節の料理を食べる際に命名旗、名前旗を飾って子供たちの成長を祈る日にしてください。

 

七夕は秋の行事?七夕とお盆の関係

又、現代日本において七夕は初夏の節句のイメージですが、大陸では「秋の節句」になります。これは現代の暦ではなく旧暦を用いているためで、実際の七夕はひと月遅れの8月に行われます。これが現代日本において天の川が雨天で見られない原因ですね。

当然、明治の改暦以前は日本でも旧暦(といってよいのか?)で年中行事が行われておりました。旧暦の7月7日あたりはお盆の季節、お盆準備の季節にあたり、この七夕風習とお盆風習がなんとなく似た景観になります。五節句の中で地味なイメージなのはお盆が関係していると思うのは私だけでしょうか?

たとえば、牽牛とお盆飾りの茄子で出来た牛という牛つながりや、水で身体を清める行事と笹の葉を川に流す行事の水つながり。七夕は禊(みそぎ)というお盆準備の側面があったように思われるのです。

夏越の祓 室礼

神社で茅の輪を潜り魔除けの茅の輪を頂いたら、ご自宅で夏越の祓の室礼を整えると良いと思います。

この半年の厄を落とし、家族の無病息災を祈るこの行事にお子様の命名旗や名前旗を飾らない手はありません。

 

季節のお菓子「水無月」

夏越の祓の和菓子に「水無月」というものがあります。京都のお茶の席では定番のお菓子です。

三方にお菓子を盛り、神様にお供えします。この工程を踏むことで神様と一緒にお菓子を頂くことになります。

 

茅の輪守り、蘇民将来符

神社で夏越の祓の行事をするときにこの時期にしかない茅の輪守りや蘇民将来符を頂きます。

これは須佐雄神が蘇民将来の子孫であることを示す「茅の輪守り」を持たないものを全て絶やしてしまったという逸話から、茅の輪を飾ることで疫病や災いから身を守る意味があります。

茅の輪守りを名前旗や命名旗に掛けるといいと思います。

 

形代

冷泉家の年中行事より

人型に切り抜いた紙や、人型に結んだススキの葉を「形代」といいます。形代で自分の体を撫でながら

水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶというふなり(みなづきの なごしのはらえするひとは ちとせのいのち のぶというなり)

と三回唱えて息を吹きかけたものに自分の厄を移してタライや瓶の中の水に捨てます。

形代はあとで川に流します。

 

夏越の祓 室礼

お子様の名前を記した名前旗や命名旗に「茅の輪守り」を掛けて、三方にお供えした水無月を家族皆さんで召し上げることで、家族の全員の無病息災を祈る「夏越の祓」です。

 

 

 

 

 

夏越の祓(なごしのはらえ)

6月30日は一年の半分という節目にあたります。お正月からこの半年の間についた厄や穢れを祓うために各地の神社では「夏越の祓」という神事が執り行われます。

本来は旧暦の6月つまり水無月の晦日(末日)に行われていたこの行事、現在の暦ではだいたい7月末から8月上旬くらいにあたります。ちょうど夏の盛りを迎えている季節ですが、翌日から秋を迎える日となります。立春から半年になり夏の盛りを無事に越した意味での「夏越」と言っていたわけです。

現在では通常の暦で6月30日に執り行われている行事です。

茅の輪くぐり

夏越の祓では茅の輪くぐりが行われます。茅草を束ねて輪を作ったものを「茅の輪」といいますが、茅の輪を神社の境内に設け参拝した人々がその輪を潜ることで穢れが祓われるとされます。

茅の輪を∞状に潜るのですが、神社によって変化があるようです。

 

茅の輪くぐり
武蔵の一宮 氷川神社の茅の輪くぐり

 

茅の輪の由来

夏越の祓に茅の輪を潜る習慣は「備後風土記」にある話が基になっているといわれます。「備後」とは出雲の南側、安芸の東側、備中の西側に当たる地域のことで現在の広島県あたりです。

貧窮の兄と富裕の弟とがあり、須佐雄神(すさのおのかみ)が宿を求めたとき、裕福な弟の巨旦(こたん)将来は応じない。一方、貧しい兄の蘇民将来は宿を提供してもてなした。帰り際に須佐雄神は言い残す。「蘇民将来之(の)子孫」と分かるよう「茅の輪」を身に着けよ。茅の輪を身につけていれば厄病を免れることができる」。その疫病がはやり、弟の巨旦将来の子孫は死に絶えたが、蘇民将来の子孫はこの言いつけを守り疫病を免れることになったという。

茅の輪くぐりの他、神社で茅の輪守りや蘇民将来符を求めることができます。蘇民将来符とは京都八坂神社のお守りの事で、古くは「祇園守」という家紋の基になったものです。

氷川神社の茅の輪お守り 家の出入口や神棚に掲げて用います。

形代

神社やお寺では、夏越の祓の折に形代という人の形を象った紙を配っています。

人型にした紙に自分の名前を記し、自分の体を紙で撫でたうえに息を吹きかけることで、自分の穢れや厄を紙に移し、神主が祝詞をあげてから形代を水に流して厄祓いをします。

残りの半年も無地に過ごせるように祈るのです。

 

形代
形代

 

夏越の祓の室礼と命名旗、名前旗

 

 

 

 

 

 

お祝いの熨斗紙

お子様の誕生はご夫婦だけでなく親族の方々にとっても大変おめでたいことです。

もし赤ちゃんとの関係が近い親族の方なら、出産のお祝いに当店の命名旗や名前旗はいかがでしょうか。

赤ちゃんの命名式に間に合わなくとも、通過儀礼や年中行事、お節句などでも大活躍するので末永くご使用いただけるのでとても喜ばれております。

ご希望の方には、当店オリジナルの熨斗紙に送り人様のお名前を書き添えて包装しております。

2022年(令和4年)6月に熨斗紙をリニューアルしました

以前の熨斗紙はA4サイズ熨斗紙に「御祝」の文字だけで、なんとなくさみしい感じがしていたので悩んでいました。

旧式:OPPの透明度の高い袋の外側から熨斗紙を貼っていました

 

新しい熨斗紙はB4サイズの和紙に「送り人」様のお名前を書き添えて、OPP袋の内側にいれて包装します。テープなどでは貼り付けていないのでご安心ください。

お祝いを受け取った方は、熨斗紙を大切に保存していることが多いそうです。誰から頂いたものなのか熨斗紙も記念になるということです。

 

新バージョン:熨斗紙が和紙になり、可愛らしい花のイラストがお祝いムードを盛り上げます。

熨斗紙の依頼のしかた

とても簡単に、熨斗紙の要不要がえらべます。

ご注文の品を選んで頂くと「熨斗」の項目があるので、要不要を選んで頂くだけです。

 

送り人様のお名前は、「ご注文主の方のお名前」が入ります。もし別の方のお名前である場合にはご注文の際「注文備考」の項目で記述頂ければ結構です。

端午の節句

五月五日は端午の節句です。カレンダーでは子供の日とあります。

本来は五月最初の午の日の意味だったのですが、「午」が「ご」と発音される同音であることで、後に五月五日の五が重なる日を端午の節句とされていきました。

又、別の説では「端午」とは仲夏端め(ちゅうかはじめ)の五日の意味であり、5は午と同じ発音の為に変化したもので「午の日」ではないとも云われます。どの文献も信ぴょう性があり、なかなか判断ができません。

端午の節句とは

奇数である「5」は縁起の良い陽の気にあたりますが、陰陽五行説の生まれた大陸では五月五日は陽の気が強すぎてかえって「悪日」とされます。五月は「さつきのもの忌み月」とも呼ばれ、邪気を祓い、魔を避け、無病息災を願うさまざまな行事が行われるようになります。

元々の端午の節句

古代中国では五月五日は不吉を遠ざけるために穢れを祓い清める日であり、香りの強い蓬(よもぎ)や菖蒲を以て邪の気を祓う習慣がありました。旧暦の5月は梅雨時期にあたり食物の衛生や虫害に気を遣う気候になります。香りの強い植物で毒消しをするには合理性があります。この他にも端午の行事として五穀豊穣を祈り疫病を避ける目的で龍を象った船で競漕したり、禍を祓う鍾馗の絵を贈ったり、粽を食すなどの習慣が奈良時代に伝わり、宮中の行事に取り入れられたことから日本でも端午の節句が定着します。

中国の龍船競漕の図

端午の節句の移ろい

宮中では軒先に菖蒲を葺いて飾り、臣下は冠に菖蒲かづらをつけて参列をする特別に日になります。菖蒲を酒に入れて飲んだり、菖蒲を湯にいれて沐浴したり穢れを祓います。菖蒲には解毒作用があり胃薬として傷を治す創薬となどの民間薬として用いられていました。又、農村においては丁度、田植えの季節にあたり田の神様を迎える大切な時期になります。田植えをする女性を「早乙女」といいますが、早乙女たちは菖蒲や蓬で葺いた屋根の下に一晩籠って穢れを祓い身を清めてから早苗を手に田植え作業をしました。端午の節句は古来はむしろ女性のための節句だったようです。

軒先に菖蒲を葺く
軒先に菖蒲を葺いた様子  新講談社の絵本 一寸法師 より

端午の穢れ払いには「菖蒲」が欠かせませんが、この菖蒲が「尚武」に通じることから、次第に端午の節句が男の子の健康な成長を願うための節句に変わっていきます。室町時代には武者絵や鍾馗を書いた幟や家紋を染めた幟をたてたり、武者人形や甲冑を飾ったりするようになります。菖蒲の葉の形も剣の形をしていることから剣水草とも呼ばれて尚武を連想させます。

 

冷泉家の年中行事より

旧公家の冷泉家の端午の節句飾り。競漕を模した飾りつけ、武者人形、鍾馗の絵、菖蒲、家紋幟がありますね。

鯉幟(こいのぼり)と五色の吹き流し

鯉のぼりの歌の影響でしょうか。こどもの日といえば鯉のぼりが思い描かれます。江戸時代になると庶民の間で鯉幟を揚げる習慣がでてきます。鯉のぼりは鯉が滝を昇りいずれ龍となるという昇竜伝説にあやかり子供の立身出世を祈るものです。

鯉のぼりの一番上には五色の吹き流しがあります。これは陰陽五行説の木、火、土、金、水を意味しこの五つの要素が揃うことで吉祥になります。

シーボルト「NIPPON] より

端午の節句の食べ物

中国では古くから端午の節句に食べる粽は疫病から身を守り、家族の健康を守ると信じられています。春秋時代に楚の国の大変高名な詩人、屈原(くつげん)が泪羅という川で命を落としたのが五月五日でした。屈原の死を悲しんだ人々が、命日に供物のもち米を水面に投じて供養したのが、粽のはじまりだといわれています。人々は供物が屈原に届く前に龍に盗まれないように、龍が苦手な笹の葉で包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛って川へ投げたことから、五月五日に粽を作り、厄除けを願う風習が日本にも伝わりました。「龍を象った船で競漕」する習慣はこの屈原を助けるためにだした船と粽を食べてしまう龍を意味するものと云われています。

日本の粽は本葛と水と砂糖だけで作られた水仙粽です。赤・青・黄・白・黒の五色の紐で粽を結んで食した家族の無病息災を祈ります。

柏餅

柏餅を包む柏の葉は、日本では祭事の神饌を盛る器(柏の家紋ページへ)として神聖なものとされてきました。端午の節句に柏餅を食べる習慣は、江戸時代に広まったそうです。「新しい芽が出るまで古い葉が落ちない」という柏の特性から、柏餅は子孫繁栄を象徴する縁起の良いお菓子です。

端午の節句には、関東では柏餅、関西では粽を食べるのが主流とされています。中国から端午の節句とともに粽が伝来したのは平安時代。端午の節句が五節句のひとつになった江戸時代には、柏餅を食べることが江戸の主流となり、伝統を重んじる上方では粽を伝承したといわれています。

 

端午の節句の室礼

端午の節句とは、「こどもの日」というよりも本来の意味は、「穢れや不吉が深まり易い時期に特に身を清め穢れを祓い、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈る」節句でした。

他の節句と同様に居処を室礼で整えて、神様とご先祖様に感謝し、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈りたいです。

甲冑を飾り菖蒲を活けて、三方に神饌としての柏餅をお供えします。お子様の名前を記した命名旗や名前旗を飾り、お子様の健やかな成長と家族の無病息災を祈ります。

費用をかけなくとも心遣いは伝わります。年中行事を日常に是非取り入れてみて下さいね。

初午

二月最初の午(うま)の日は「初午」といい、京都伏見の稲荷神社(稲荷社の総社)の神様が伊奈利山に降臨したといわれる日で、全国の稲荷神社で祭礼が行われます。稲荷社は商売繁盛、家内安全の神様を奉っているとして知られていますが、主祭神は宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ 倉稲魂神とも書きます)で五穀豊穣の神様です。稲荷は「稲生り」が語源とも云われています。

関東の稲荷社は王子稲荷が有名で、関東一円の狐が大きな木の下で装束を整えて王子稲荷神社に詣でたという伝承があります。

王子稲荷の浮世絵
王子装束ゑの木大晦日の狐火   国立国会図書館 江戸百景 広重
お稲荷さんのお供え
油揚げやお豆腐と一緒に、「しもつかれ」という節分の豆の残りや大根おろしを煮て藁に包んだものをお供えします。

初午のお供えは赤飯、豆腐、いもこんにゃくの煮物などで、神社では油揚げをお供えするところもあります。「しもつかれ」は「すみつかり」ともいい、主に関東での習慣のようです。

場所によっては、節分豆、大根おろしの他、新巻鮭の頭、酒粕、人参など、を入れる地域もありますが、年末~正月の残り物(節分は立春の前日なので大晦日にあたります)を入れることは共通しているようです。

 

東京の王子稲荷では凧市が開かれます。凧は風を切る火事除けの縁起物です。

針供養

関東地方ではこの日に針供養の法要が行われる神社もあり、縫製の仕事にに関わる人々は折れた針や古い針を感謝を込めて豆腐やこんにゃくなどの柔らかい物にさして供養をします。

 

初午の室礼 名前旗、命名旗の飾り方

お稲荷さんと火事除けの縁起物の凧を三方に盛りお供えします。傍らにお子様のお名前を記した名前旗、命名旗を飾ることで、お子様の健やかな成長と家内安全を祈念する意味になります。

初午の室礼 三方の上にお稲荷さんと凧を盛りお供えする
寅年に因んだ凧を選びました

初午の夕飯には、お稲荷さんや豆腐、こんにゃくなどの煮物を召し上げると良いと思います。

 

 

節分 (立春前日)

節分というと2月3日の豆まきの行事のイメージですが、実は一年に4回あります。一年を春夏秋冬の4つの季節の分け、その季節の最後の日を節分とします。立春、立夏、立秋、立冬がその季節の始まりとなるので、その前日が前の季節の最後の日、節分というわけです。

この立春前の節分が殊更重要なために、他の節分の影が薄くなっています。年賀状に「迎春」と大きく書くことがありますが、この春とは「立春」を意味します。二十四節気における立春は旧暦のお正月の日に近く、一年の始まりを意味するものなのです。従って立春前日の節分は「大晦日」の意味合いが強く、まさしく一年の最後の日、厄除け厄払いが行われる日なのです。

豆まきの由来

宮中における弓の弦を鳴らして鬼追いをする儀式「追儀(ついな)」が現在の豆まきの形に変化したといわれています。農村では、節分の夜に戸口や軒下に柊(ひいらぎ)の小枝に鰯(いわし)の頭をさした「やいかがし」を差します。鬼を遠ざけるといわれます。

炒った豆は、お供えしてから家の外へ向かってまき、年の数だけ豆を食べます。豆は「魔目」「魔滅」に通じ、立春前日に災いや厄病をもたらす鬼を追い払い、春をもたらす神様を迎えて豊穣を祈る儀式なのです。

鬼のイメージの謎

日本における「鬼」は歌にもある通り「トラのパンツ」なるものを穿いています。頭部には角がはえており髪は大体もじゃもじゃです。ストレートヘアーの鬼はみかけません。日本に虎はいないので海の向こうから来たのでしょうか?とても強そうです。

鬼のイメージ
新・講談社の絵本 桃太郎 より

虎、角には理由があります。下の方位図を見ると1月と2月の間が「丑」「寅」の境目になって、北と東の間、つまり北東が「艮(うしとら)」となっています。北東は「鬼門」の方角になり占い事では慎重な扱いをしている方角になります。

方位図

つまり、「鬼」とは災いや厄の象徴であると同時に、「鬼門」が丑の角、虎の皮を以て表現された方位の象徴であるといえます。立春の前日の節分に厄払いや鬼追い行事は大変重要であったということです。(やらなかった場合のことを考えると、新年がうまくやり過ごせない気がしてきます)

節分の室礼

節分は大晦日同様の意味を持つ年中行事で、一年の厄を払い春を迎える行事です。「柊」「やいかがし(イワシの目刺しなど)」と「炒った豆」をお供えします。一緒にお子様の名前を記した「名前旗」「命名旗」を飾ることで、お子様の厄払いと無病息災を祈り新たな気持ちで春を迎える意味になります。

 

お父さんに鬼の面をかぶせ、家族みんなで一緒に豆まきをする。子供たちにとり、とても楽しい思い出になるでしょう。日本中の子供たちが楽しく豆まきをしてほしいと願っています。

 

 

当店FamilyStyleでは、年中行事やお節供(お節句)の際に、名前旗や命名旗を飾ることをお勧めしています。お供えには木製三方があると場が引き締まります。

 

小正月

旧暦の1月1日のお正月は、当然ながら新月で真っ暗なお月さまです。旧暦は月の満ち欠けを基準に暦にしているから1年最初の月の初日も新月と決まっています。

そのお月さまがだんたんと厚くなり、1年で最初の満月を迎える1月15日が小正月にあたります。小正月は1年最初の満月を祝う行事です。小正月の前夜には正月飾りや門松などを片付けて左義長の準備をします。

主に農村部では、豊作を祈る行事として農作物を象った飾り物や、養蚕の盛んな地域では繭を象った餅をつくったりします。繭玉は餅花ともいいますが、その繭玉を左義長の焚火で炙って食べるとその1年を無病息災で過ごせるといいます。これは新年初めての満月の夜に、予め花や実がたわわに実っている豊作の状態をつくることで現実がそのようになることを働きかける「予祝(よしゅく)」の行事です。

小正月には、赤い食物である小豆でつくったお汁粉をたべると魔除けになるもいわれ、鏡開きで残った餅を入れて食します。

繭玉
だんご粉に食紅を垂らして練りこむと紅餅になります。小さい繭玉をたくさんつけたほうがキレイに見えますね。雑すぎました。子供たちと一緒に繭玉を作るといい思い出になりますね

 

小正月の室礼

お正月に活けたお花に梅や桃、桜があれば、丁度良く繭玉をさす枝になります。

お子様の名前を記した名前旗や命名旗も一緒に飾って、一年の無病息災を祈ります。

小正月の室礼

繭玉の作り方

材料:だんご粉 食紅赤

  1. 市販のだんご粉、上新粉に水を少量づつ入れて練りこみます。だんご粉の袋裏側に粉に対して水の分量が記述されていますが、一気に入れず少量づつ練りながら入れるのがコツです。
  2. 練りこんだ生地を半分に分けます。片方に食紅赤を少量いれて練りこみピンクの繭玉の素を作ります。片方には食紅は入れないので紅白の繭玉の生地がそろいます。
  3. 上記 2 の紅白の生地を10分ほど蒸します。蒸し器でなくても、お鍋の底に水を張ってその上に耐熱皿を置き、キッチンシートの上に生地をおいてもよいです。
  4. 蒸しあがった 3 の生地をヘラなどで練ると弾力が出ます。それを温かいうちに枝にさしたり、くっつけたりして繭玉が完成です。

幼児は粘土遊びが好きなので、一緒に繭玉つくりをするときっと楽しい思い出になると思いますよ!

小正月には、12月の「正月事始め」から忙しく働き通しだった婦人の皆さんを労い、この小正月を「女正月」としている地方もあります。この日はご婦人がただけでお酒を飲む風習があるそうです。

お正月も現代では大体この日でおしまいです。お正月の期間活躍してくれた命名旗や名前旗も一旦お休みして、三方などと一緒にしまっておいてもいいですね。とはいえ、次回は立春と節分と年中行事は続きます。

 

左義長・どんと焼き

左義長(さぎちょう)は、正月飾りを焚いて祓い清める小正月に行われる行事です。

1月14日の夜または1月15日の朝に、正月飾り(注連飾りや門松)や書き初めの書、昨年の達磨などを焚いて1年の無病息災、五穀豊穣を祈りながら年神様を送ります。

その火で焼いた団子や餅、繭玉を食べると、その年は無病息災で過ごせるといわれます。又、書き初めを焼くと書道の上達をのぞめるといいます。

地域によりその名称は様々で、「どんと焼き」「道祖伸まつり」「オンペ焼」などともいいます。元は宮中の清涼殿で行われていた儀式です。

 

実家の庭先で左義長を行いました

左義長
冬の関東は乾燥しているので火の取り扱いは厳重注意です。 正月飾りや門松を焚きます。

 

左義長
昨年の目標は達成できませんでした。 達磨さん片眼でスイマセン

 

餅花はなかったので焼き芋にしました。

 

残った灰は畑の土と混ぜてしまいました。灰はアルカリ性なので土の酸性土壌を中和する効果があります。灰の中にある針金や釘、達磨さんの底の重しなど丁寧に取り除きましょう。